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真理子さんの人生物語  [高村真理子人生軌道]

理子さんの生物語



あなたの感動をありがとう


  真理子さんの感動的な最後をその写真集にて少しでも皆さんに実感していただけたらこれほどの喜びはありません。
またこの人生物語を通して、皆さんも自分の可能性に気づきその喜びを味わうことができれば、これこそ真理子さんの蒔いた種が皆さんの中に芽吹いたということになりますし、これが真理子さんへの供養にもなることを祈って止みません。
 2006年6月3日に高村真理子さんが愛してやまなかったカリフォルニア州立大学ノースリッジ校にて「高村真理子を偲ぶ会」が行われました。そのときの真理子さんの夫のエリックさんの説明をここに紹介しました。エリックさんの説明だけでは足りないので私(鈴木美智子)の判断で彼女の人生をもっと実感できるよう願いを込めて「真理子さんの人生解説」を加えました。
  エリックさんが提供してくれた素顔の真理子さんの写真もありますので楽しみに!
  さあさあ高村真理子の人生物語の始まり~始まり~。さてどんな人生軌道があるか、わくわく!


takamurasan.jpg


ホームページ「ゆうゆうゆう」より転載


(注:上記の「ゆうゆうゆう」のホームページはCSUNで行われた「高村真理子さんを偲ぶ会」2006年当時のもので現在は別テーマにて運営されているということです)

真理子人生物語本文トップ


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真理子さんの人生前編


高校時代の真理子さん
高校時代の真理子さん

かわいらしい表情が印象的です。
「アメリカ手話で世界が広がった」 (日貿出版社 2005年刊)より転載

[彼女の人生解説]

 小学時代の真理子さんはよく知らない人を家に連れて来ては真理子さんのお母さんを戸惑わせていました。
例えばピンクの背広を着たおっさんを連れて来た時はお母さん絶句したようですが、真理子さんはそんなこと気に留めずに「お母さん友達連れてきたからお茶とお菓子出してね」と言って、おっさんの話しを熱心に聞いていたエピソードは子どもだったとはいえ、真理子さんの仏性がすでにここに現われていたことを物語っています。

 中学時代の真理子さんははにかみ屋で大人しい女の子でした。

ある日Sさん(その人は後に人気俳優となる)とデートをした時、あまりにも恥ずかしくて一言もしゃべらなかったため失恋したと真理子さんは笑って話したことがあります。

   高校時代の真理子さんは将来医者になりたいと思っていたところが聞こえない人は医者になれないことでショックを受け、絶望に落ち入り、池袋の駅近くをたむろしていた不良高校生としゃがみこんでその高校生の話しを聞いていたのエピソードがあります。


向かって左側が真理子さん
友人と一緒の真理子さん

向かって左側が真理子さん。とても楽しそうな表情が印象的です。
「アメリカ手話で世界が広がった」 (日貿出版社 2005年刊)より転載

   

  そこには偏見なくその高校生の気持ちを共感できたという真理子さんの才能が垣間見え、それが後の真理子さんを導いたともいえるでしょう。

  普通は絶望に落ち入った時、不良少年と話をすることなんて考えられません。

ところが真理子さんは恐らく駅で不良少年を見た時彼らの気持ちが何となく共感できるものを感じたからこそ、何の恐れもなく少年たちに近づいて話しができたのでしょう。


 真理子さんは後に私(鈴木美智子)に「私ね、少年院の少年たちのカウンセラーとなって、少年たちに希望を与えたいのよ。でも主人が反対するから今は無理だけど年取ったら絶対になるわ」と言っていました。

少年院のカウンセラーこそなりませんでしたが、インドネシアで真理子さんはを実現しました。

  聾のA君でアルコール中毒、麻薬中毒に陥り、家族がいるのに、7年もの路上生活をし、家族からも「聞こえないからばか」だと見放され続けられ、自殺未遂を起こしたA君に希望と勇気を与えたのです。(その様子はこちらをご覧下さい「真理子さんが愛したインドネシア」―私が力を貸してあげるから、あなたの才能を見せて――Mariko―

  真理子さんは上記だけでなくアメリカの大学へ留学した人たちの良き相談者であり温かく励まし続けてくれたのです。そこにも分け隔てない平等に接する真理子さんの姿が浮かび上がります。そういう真理子さんの態度に感激して「あなたはまるで聖母マリア様だ」と言った留学生もいたほどでした。真理子さんのその姿はまるで母親のようでした。

  真理子さんは少年院のカウンセラーにこそなれませんでしたが、アメリカへの留学生やインドネシアの聾者・児たちの良きカウンセラーとなったのですから、そこで真理子さんの夢がかなったとも言えるでしょう。



(参照 「アメリカ手話留学記」 径書房 1993年刊 より)


スケートボードを楽しんでいる真理子さん
20歳頃の真理子さん

楽しそうな真理子さんに本当にスケートボードが好きだったのが伝わります

[真理子さんの夫、エリックさん談]

スケートボードを始めた頃

  高校時代から真理子は、スケートボードが大好きで大会に出るほどの腕前を持っていました!彼女は、自分が彼女と同じ位の年より、活動的な女性でした。

  [彼女の人生解説]
 その頃はまだ彼女は難聴という壁にぶつかっておらず、両親の愛情の中で幸せな中ですくすくと育てられていました。

上記で紹介したようにお母さんがもし娘が変な人を連れてくるたびに「いけません!」と言っていたなら、恐らく後にいろいろな人たちと平等に接する真理子さんはいなかったのでしょう。そういう理解を示してくれたご両親の中でいかに彼女はのびのびとしていたかが想像できます。


 その大切に育てられた環境が真理子さんの心を豊かにさせ彼女の人生にも反映されます。


20歳頃の真理子さん モデルもやっていた
20頃の真理子さん

モデルもしていたほどの積極的な女性でとてもすてきに輝いているのが伺えます。
「アメリカ手話で世界が広がった」(日貿出版社 2005年刊)より転載

[エリックさん談]

  これも、20歳の頃の真理子さん。モデルとサーフィンをやっていました。


[彼女の人生解説]

  大学生のごろの真理子さんは美人で周りの目を惹いていたようです。

  その大学時代に初めて難聴の壁にぶつかります。

  難聴のことを理解しない教授によって彼女は苦しめられます。

  口話が堪能だった彼女は教授にそのことを説明し訴えますが、教授は逆に怒り、彼女が悪い学生だとブラックリストに入れられてしまいます。

  その出来事が彼女の心のドアに知らずのうちに叩き始めます。

  それが彼女のこの世に生まれた時の願いがわずかに芽生え始めますが、その時はまだまだショックの波の中に彼女はいました。


(参考資料「アメリカ手話留学記」径書房 1993年刊より)

CSUN留学した後の真理子さん

[エリックさん談]
真理子は、学生寮でたくさんの友人といろんなことを話していました。

CSUN時代の真理子さん アメリカ手話を学んでいるところ
CSUNでクラスメイトと一緒にアメリカ手話を勉強している真理子さん
  [彼女の人生解説]
 大学を出て社会に入って、さらに難聴の大きな壁にぶつかり悩み続けていたある日電車に乗っているとき、朝日新聞に聴覚障害者の富川哲次氏がCSUNの大学院を卒業したの記事が目に付き、「これだ」と思わず席から立ち上がるほどその記事に釘付けになりました。
  その記事が彼女に決定的な影響を与え、CSUNへの留学を決意することになりました。
 彼女の話によれば富川氏は大変に謙遜的で紳士的な人として印象に残ったということですが、富川氏は他の方々にも大きな影響を与えていました。
  真理子さんはCSUNへの留学をきっかけにこれまで縁のなかった手話に触れ、そして難聴でもできるんだと大きな自信を持つなどで、明るくなっていきました。
  彼女持ち前の社交性でたくさんの友人を得ていましたし、好奇心の強い真理子さんはそれにょってさらに彼女の世界を広めることになりました。
(参考資料「アメリカ手話留学記」径書房 1993年刊より)
CSUN時代の真理子さん 右から2番目が真理子さん
CSUN時代の真理子さん 右から2番目が真理子さん

エリックさんと初めて会った頃で友人と一緒に夕食を食べたときの写真
(日貿出版社 2005年刊)より転載
[エリックさん談]   私が初めて真理子に会ったときは、二人でテレビを見ていました。
そのとき、私は、彼女に何か秘密があるのではないか、と思っていたのを覚えています。

[彼女の人生解説]
 初めてエリックさんと会った時、好みではなかったと真理子さんは笑っていましたが、次第に彼の誠実さ、聴こえない彼女を受け入れる姿勢に惹かれ、後に二人は結婚しました。
 真理子さんは黒人のこととなると我のことを忘れるほど熱っぽく語り、映画を見てねと私(鈴木美智子)にいくつかの黒人差別に関した映画を勧めてくれたりしました。どの映画もすばらしいもので差別、それに立ち上がる勇気の大切さを教えられました。
 彼女は差別を経験したからこそ一層差別に対して敏感になり、それを追求することによって人間とは何か、それが「人の”いのち”を大切にする真理子」にとさらに育んで行ったのです。
CSUNでも黒人の歴史を自分の専攻ではないのに学ぶほど差別を我が事ととらえることのできた真理子さんでした。
ディスコ通いをしていたごろの真理子さん
赤坂でのディスコ(当時)前で

ダンスがとても好きで、ディスコ通いをしていた頃の真理子さん
「アメリカ手話で世界が広がった」 (日貿出版社 2005年刊)より転載

エリックさん談
  彼女はダンス、サーフィンととっても活動的な女性でした。


[彼女の人生解説]
   アメリカのあるパーティで真理子さんとダンスする機会があったのですが、真理子さんのダンスの見事さに驚いたことを覚えています。
  若いときからいろんなことに挑戦した真理子さんは本当に活発的な女性で私と出会った時の真理子さんはダンスではありませんでしたが、いろんな方面で積極的に活動していましたが、元々ジッとしているのが性分に合わなかったなあと今振り返ってそう思います。
  そして自分の好きなダンスを本格的に仕事とし、各方面で歌とダンスを披露するほどでそのときの真理子さん若々しくて生き生きとしていたのを覚えています。後ほど述べますが、歌とダンスを披露したのにも強い願いが込められていました。ともかく強い信念を持った女性でした。



元ミスアメリカのホワイトストーン(当時)さんと
元ミス・アメリカ、ヘザー・ホワイトストーンさんと(当時)

真理子さんは、元ミス・アメリカ、ヘザー・ホワイトストーンさんにお会いしたことを「アメリカ手話で世界が広がった」(日貿出版社 2005年刊)に記していますが、よほど印象に残ったようです。

[エリックさん談]

 私は、真理子と彼女が会った時のことは知りませんが、私は真理子からヘザーさんのことをよく聞いています。

  ヘザーさんと私は、同じアラバマ州出身だと記憶しています。


[彼女の人生解説]
 ヘザー・ホワイトストーンさんはろう者で初めてミス・アメリカに選ばれた女性で当時は大騒ぎでした。
真理子さんはヘザーさんに会ったときの印象を「小柄だけどすごいオーラを発している」と感心していました。
真理子さんは彼女に共通するものを感じたでしょうか、その後アメリカのろう者からヘザーさんへの批判が出た時、真理子さんは彼女をかばい、彼女のために怒ったりしたのです。
そういうふうに真理子さんは弱いものの味方をするのも彼女の特徴でもありました。
時には変な理屈をつけては庇うこともあるのも真理子さんでした。それが彼女の魅力でもありました。
だからこそ多くの人たちから慕われ信頼されたのでしょう。
 
 真理子さんはヘザーさんのお母さんが書いた本「『ミスアメリカは聞こえない』聴覚障害児を育てた母親の記録 ダフネ・グレイ著、高村真理子監修径書房」を翻訳しています。



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高村真理子さんの日常生活編



真理子さんのご主人のエリックさんが提供してくれた写真を中心に日常生活のことを話してくれました。

[エリックさん談]
 真理子と私は、よく公園に行きました。
公園散策する真理子さん
週末の公園にて

寛いだ表情の真理子さん(エリック・ウォルトンさん提供)


週末に、美術館も行くこともありました。
私達は、美術館を歩き回り、たくさんの絵を楽しみました。
私たちの息子も一緒に連れて行くこともあり、皆で楽しみました。
 息子は今現在たくましく成長しています。彼の笑顔と真理子の笑顔はそっくりです。
息子は、真理子が持っていた輝く笑顔をそのまま受け継いでいます。

  [彼女の人生解説]
 真理子さんはよく週末には家族で自転車に乗って出かけたりするのよと嬉しそうに話したことがあります。


 そのように彼女は家にじっとしているより外へ積極的に出かけるのを好む女性でした。

[エリックさん談]

 この写真も公園で取ったものです。

いやだ~、撮らないで~と嬉しそうな顔
いや~撮らないで~恥ずかしぃ~

いや~撮らないで~と言いながら嬉しそうな顔の真理子さん(エリック・ウォルトン氏提供

  この写真は、真理子が、“いやだ~、今撮らないで~!”と言っていた瞬間です。
普段は、彼女の美しい顔の写真を撮る私ですが、このときは、タイミングが悪かったようです。


[彼女の人生解説]

 エリックさんは謙遜していますが、その写真の真理子さんは心より嬉しそうに見えます。
彼女のエリックさんへ気を許しているからだと思います。
いかにもリラックスしているのがよく伝わります。

  エリックさんがいつも美しく撮ると言っているけれども、この写真を選んだのは自分の妻らしさ、いかにも楽しそうな様子が伝わっているからかでしょうね。

部屋掃除をしている真理子さん
せっせと部屋掃除

 「どうちゃんと掃除してるでしょ」の顔の真理子さん(エリック・ウォルトン氏提供)

[エリックさん談]
 真理子が寝室部屋を掃除しているところです。
たくさんのものが、寝室に散らかっていたので、彼女が一生懸命に掃除をしていたところを撮りました。

[彼女の人生解説]

  真理子さんはどちらかといえばお掃除は苦手で散らかしてもあまり気にしなかったけど、「主人がうるさく言うからしぶしぶ掃除するのよ~」と笑って話してくれたことがあります。真理子さんは料理がものすごく上手ででも後片付けはめんどくさいのよとも笑いながら話してました。その真理子さん直伝の特製ポテトサラダをアメリカで作ったところとても好評で皆おいしいと言ってくれましたからいかに真理子さんが料理の工夫がいかにうまかったかが分かると思います。

[エリックさん談]

お気に入りのヘアーでどう?と得意顔
お気に入りのヘアーでどう?と得意顔

とてもお似合いの髪型をしてます。生き生きとしている真理子さんです。(エリック・ウォルトン氏提供)

 この写真は、真理子が好んでよくしていた髪型です。
彼女は、ヒップホップダンスが大好きなので、ダンススタイルに合わせた髪型をしていました。
彼女は、私よりもとってもダンスが上手です。


[彼女の人生解説]

 そこにも彼女の黒人への想いが現われています。自分も差別を受けるなどの苦しみを味わったことがある真理子さんだからこそです。その他に黒人特有の歌とダンスを愛していたのには理由があります。大変強いソウル(心)に響く、そういうアメリカ黒人独特の音楽真理子さんは愛していました。



夕食に行こうかと迷っている真理子さん
うーーんどうしょうかな?

夫の夕食の誘いに迷っている真理子さん(エリック・ウォルトン氏提供)

[エリックさん談]

 この写真は、ある日の夜、彼女のオフィスにての一コマです。
一生懸命に仕事をしている彼女に対して、私は彼女を外食に誘いました。
彼女がどこに行こうか、考えている時の写真です。


[彼女の人生解説]

  真理子さんは自分の会社を設立してからは本当に忙しい毎日を送っていました。また1993年に本を発売してからはたくさんの難聴者からの相談を受けたりしていました。その相談は本当に相手の身になっての姿ですから相談した難聴者たちは心が励まされ温かい気持ちにさせられていました。

  ですから夫との外食はひと時の楽しみだったことでしょう。それに真理子さんは舌が肥えていましたし、いろんな国の食事を知っていたからどこへ行こうかな~と迷うことができたでしょう。私も真理子さんに誘われておいしいレストランに連れて行ってもらったことがあります。真理子さんは本当にいろんなレストランをしっているなぁと感心していたことを覚えています。


夫のエリックさん好みの髪型をした真理子さん

さきほどのカラフルなヘアースタイルとはからっと違う髪型です。落ち着いた日本女性の感じが出ていますから髪形だけでイメージが違うのも面白いものですね。
夫のエリックさん好みの髪型をした真理子さん

[エリックさん談] 

 真理子は、ダンサーでありますし、それに合わせた髪型をいろいろ試していました。
ダンスをやる者として、髪型と外見はとっても大事です。
しかし私は、この髪型をしている彼女が一番大好きです。


[彼女の人生解説]

  真理子さんは「その髪型主人好みだから仕方がなくしたのよ」とちょっと苦笑しながら私に話したことがあります。そのとき私は日本のほとんどの夫は妻に自分好みにさせる傾向があるけど、アメリカ人の男性でもそうするんだと興味深いなと思いました。

  ただ真理子さんは忠実にご主人に従うだけの女性ではありませんでした。はっきりと自分の意見を言える女性でしたから時にはご主人とぶつかることもあったようです。先ほども話しましたが、それに活動的な女性でしたから家にじっとしているより外へ出ていろいろ活動するほうを好む女性だったと思います。そういう真理子さんのほうが生き生きとしていたのを覚えています。



[エリックさん談和訳]:AMさん、鈴木美智子

[彼女の人生解説]文責:鈴木美智子


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真理子さんの人生後編


  いよいよ真理子さんの人生後編です。1993年に本を出版してから多くの難聴者からの相談を受けるようになった真理子さんですが、その中の一人の声がきっかけでツアーを企画しました。そのツアーは真理子さんが死ぬ直前まで毎年恒例となっていました。最初の数年はロスが中心でしたが、ワイルドザッパーズというアメリカ黒人聾男性グループがダンスや手話による歌などを披露していましたが、そのグループとの出会いがきっかけでさらにツアーの幅を広げて、ワイルドザッパーズの住んでいるワシントンDC、アトランタ、ロスと回ったのです。そのツアーの参加者はほとんどが真理子さんが英語を教えていた筑波技術短大[現在筑波技術大学)の学生達でした。そのためそのツアーは大学の春休みに実行されていました。

  なお人生後編の話は私個人の思い出として話させていただきました。写真も私やそのツアーに参加者からのものです。

※写真日付は順不当となっています。

CSUN見学編


真理子ロスツアーのCSUNにて1997年10月11日
真理子ロスツアー CSUNにて

CSUNの図書館前で説明する真理子さん(写真後方の黒いTシャツを着て前を向いているのが真理子さん) 1997年10月11日 (撮影:鈴木美智子)

  カリフォルニア州立大学ノースリッジ校(以降略CSUN)にて

  CSUNは真理子さんが学んだ大学であり、大変愛した大学でもありました。当大学を案内するときの真理子さんは本当に生き生きとまるで自分の家に帰ったような表情をしていました。

  左の写真は当大学の図書館前でですが、その図書館は大きなものでしかもテレビドラマ撮影などによく利用されるほど有名なのです。デザインが美しいことが理由のようです。

  私が留学していた間も何回かテレビドラマ撮影がその図書館前で行われたことがありました。

  戸の図書館は本を貸したりするだけでなくもちろんコンピューター室もあります。そこからメールしたりいろいろ調べものもできます。その他に学生たちがグループでミーティング、または一緒に勉強したりする部屋もあるのです。私もよくその部屋を利用していました。そういう部屋があることは私たち学生達にとっても助かりました。

真理子ロスツアーCSUNのNCODにて通訳する真理子さん1997年10月11日
CSUNのNCODにて通訳する真理子さん

NCODでボブさん[向かって左)の話を通訳する真理子さん[向かって右) 1997年10月11日 撮影:鈴木美智子

[NCODにて]

  NCODというのは聾・難聴学生サービスセンターのことです。ボブさんはカウンセラーの責任者です。私たちを案内してくれました。ボブさんの話を真理子さんが通訳していましたが、印象に残ったのが真理子さんのアメリカ人に対するいつも朗らかな表情で自然体で接する姿でした。楽しそうで相手も身構えることなく自然体で真理子さんとコミュニケーションしていたのをみてかっこいいなぁと当時の私は思っていました。

  ボブさんの後にあるメールボックスは学生達が受講したクラスでのノートテークのコピーを入れたりするのに利用されます。受講する際に手話通訳だけではなくノートテーカーのサービスも当然ながら受けます。なぜかといいますと、手話通訳者をずっと聾・難聴学生は見ています。もし少しでもノートに何か書き込むために目をノートに向ける瞬間だけでも教授の話を見逃してしまいますから、よそ見もできません。だからこそノートテーカーの登場となるのです。ひとつのクラスに何人かの聾学生がいれば、代表者がそのノートテークのノートを受け取って、NCODへ行って、クラス番号などを書いて渡しておけばそのクラスを受講した学生達それぞれのメールボックスに入れられるという仕組みになっています。当然学生一人ひとりに暗証番号が与えられますから、他の学生が勝手に別の学生のメールボックスを開けることはできないのです。

真理子ロスツアーのCSUN 、NCODにて 1995年9月26日
NCODで団欒する聾学生達
楽しそうに団欒するその姿がかっこいいので思わずシャッターを押しました。右端で紫色のリュックを背負っているのが後姿の真理子さん、左端で背を向けている女性が私たちのCSUN見学を企画してくれた方です。(撮影:鈴木美智子 1995年9月26日)

  当時で聾・難聴学生はおよそ250人ぐらいいましたが、手話通訳者などの人数の関係で250人までが限界という説明を受けていました。私が留学したときも同じ状況でしたが、とても多くの聾学生が学んでいるという印象を受けました。私の見たところNCODでサービスを受ける学生は聾学生で一部の難聴学生は一般学生と同じ扱いをを好んだように見えました。そういう難聴者で聾学生と一緒にしたくない点においては日本の難聴者と変わらないなと思いました。

  NCODでは手話のあまりわからない難聴学生に対してのサービスも行っています。リアルタイプキャプション(文字による同時通訳のことですが)もあります。私は手話通訳のサービスを受けていましたが、そのリアルタイプキャプションがあるときはノートテークの変わりにそれを利用していましたが、とてもレベルの高い英語で読みやすいものでした。そのリアルタイプキャプションですが、私は別の大学でそのサービスを受けたことがあります。しかしその英語レベルがあまり高いとは思えず、そのリアルタイプにはルールがありますが、そのルールに従っていない印象を受けました。授業のあとその文字のコピーを受け取るのですが、とても分かりづらい内容だったのを覚えています。そういう点においてNCODのリアルタイプキャプションの技術はかなり優れていると自信を持って言えます。

  真理子さんのしっかりとした目的のある中身の濃いCSUNツアーによって何人かの参加者の中からCSUNへ留学する人たちが排出しました。真理子さんは留学は有意義なものであるといつも私たちに話していました。「目的がなくても留学することによって目的を持ってほしいと思うのよ」と私に話していました。そういう真理子さんを見て「あーその人は一人ひとりの可能性を信じているんだな」と思ったのを覚えています。そういう真理子さんだったからこそどんな時も留学生達を励ますことができたと思います。そういう真理子さんの姿に多くの留学生達は母親のような感覚を持ち、励まされたようです。



メモ:CSUN=California State University, Northridgeの略
NCOD=National Center on Deafnessの略



トライポッド見学編




トライポッド 幼稚園にて1996年9月26日
トライポッド 幼稚園にて

 先生も手話で話をしている。(撮影:鈴木美智子 1996年9月26日)
  トライポッドというのは聾児と聴児が共に学ぶ環境作りを理念に掲げてスタートしたプログラムです。ロス郊外にあるバーバンク市に幼稚園を始め小学校、中学校と高校でそのプログラムを敢行していました。現在はそのプログラムは廃止されてしまいましたが、当時は日本でも大きな話題となりました。

  普通は聾児が一人で普通の学校で学ぶが主流となっていましたが、トライポッドの特徴は多くの聾児が入っており共に学ぶ聴児は皆手話を使っていることでした。また先生も皆手話を使って教えていることも特徴でした。手話でお互いに分け隔てなくコミュニケーションする姿は印象的でした。またトライポッドの特徴として先生に必ずもう一人のアシスタントが付くことです。お互いに補い合うことでさらに充実した授業内容になることを目的としたものです。

  真理子さんが初めてのロスツアーを企画したのは平野さん夫婦の相談がきっかけでした。その夫婦の子供がダウン症でその知的障害児教育を見学したい希望をしたそうですが、その教育プログラムを見学すると同時にトライポッドも参考になるのではないかということでその見学が実行されたという経過がありました。それ以降毎年見学することとなりました。


トライポッド 小学校 1996年9月26日
トライポッド 小学校

小学校です。そこでも手話による授業が行われていました。(撮影:鈴木美智子 1996年9月26日)

  当時のプロデューサーだったカール・カーシュナー氏は来日したことがあります。そしてトライポッドのことを日本の皆さんに話したことがあります。カール氏は両親が聾者だったこともあって、『聾』に対する理解が会ったと思いますし、両親がいた時代をカール氏は経験しているからこそ聾児と聴児が共に学べる環境をと強く願ったと思います。カール氏の両親の時は強い口話至上主義が全米を支配しており、『聾』を全く理解しない時代で聾者・児たちが手話がばかにされ、仕事も限られた種類のものしかできず、しかも仕事に就いても真っ先に首にされるなどで貧しい生活を余儀なくされた聾者たちが当たり前とされていた時代でした。

真理子ロスツアーで 1995年9月26日
トライポッド 中学校前にて

中学校前の道路があまりにもカリフォルニアのロスらしい風景でかっこいいので私たちもポーズをとってパチリ!(写真提供:鈴木美智子 1995年9月28日)

  ひとつ例をあげると私のルームメイトであったケビンの両親は聾者です。ケビンのお父さん、ロバートさん、は子供のごろ聾学校に在学していました。大変いたずら好きの子供だったそうで、そのいたずらが仇にされてある寒い冬の日、男の先生から罰として上半身裸にされ、冷たい水の中へ上半身を突っ込ませそして手で押さえつけたのです。その場所はミズーリ州で冬は零下になるのが当たり前であるほどの土地です。その零下の中で冷たい水の中に突っ込まれ、しかも押さえつけられていますから息もできません。他の先生が止めてようやくその先生は押さえつけていた手を緩めました。当然ながら幼かったロバートは全身が青紫色になり息もしていないかどうかの状態で病院に運ばれました。一命を取り留めましたが、その先生はお咎めなしでした。1970年代には手話が聾学校の中で認められ始めた時期ですが、その時期に私の友人でアメリカ人聾女性でKさんが4歳ごろ聾学校の幼稚部で学んでいましたが、その時に大人たちが汚い言葉の意味である中指を立てる仕草をしていて、そのKさんはその意味もわからずその真似を先生の前でしたらいきなり先生がKさんの指を掴んで引きずり、熱い湯をKさんの中指にかけたそうです。幼いKさんはいきなり熱い湯を指にかけられ訳もわからず頭が混乱したそうです。すぐに他の先生が止めたおかげでKさんの指は大きなやけどを負わずにすみましたが、その先生はすぐに首にしたそうです。今だったら首だけでなく警察に逮捕されますが、そういうふうにその時代は聾児の人権が無視されていました。無視されたからこそ手話を使えば当然のように体罰が下されるのをこらえなければならなかった時代でした。

  そういう差別された両親を見ていたからこそカール氏はそういう強い願いを抱いていたのでしょう。トライポッドプログラムはあまり多くの聾者たちは好まないと認められませんでした。聾者側からすれば当然のことでしたが、それでもカール氏の強い願いをトライポッドに注いでいました。そのカール氏の心は敬ってもいいと思います。それだけにトライポッドがなくなってしまったことはカール氏にとっては大変残念なことだったと思います。

カール・カーシュナー氏と奥様 1995年9月30日
カール・カーシュナー氏と奥様

仲の良い御夫婦の雰囲気が良く出ています。お互いに敬い合えるような夫婦でした。奥様おいしい御料理をご馳走様でした!
撮影:鈴木美智子 1995年9月30日


  ツアー最終日にカール氏の自宅でパーティが施されていました。カール氏の奥さんは大変に料理が上手で私たちツアー参加者の舌だけでなくその料理の飾りつけで私たちの目を楽しませてくれました。

  奥さんは聴者で真理子さんがCSUNにいたときのアメリカ手話の先生だったそうです。そして奥さんは料理したら必ずそれらをファイルに入れておき、同じような料理を出さないように心がけているそうです。カール氏の長女で手話通訳もやっていますが、彼女から「私はおじいさんとおばあさんが大好きでいつも家へ遊びに行くのがとても楽しみだった」と話してくれたのが印象に残りました。それだけにおじいさんとおばあさんが亡くなった時はとても悲しくて死に顔を何度もなでたのよの話に、それだけ大好きだったんだなぁと胸が温かくなりました。どちらかといえば「聾」の祖父母とあまり手話で話したがらない孫達も多くいたかも知れないときに自分の祖父母を誇りに思い大好きだと言い切るカール氏の長女に、カール氏がどんなにか自分の両親を大切にしたかを見せられたように思いました。

真理子さんと私 カール氏の自宅にて1995年9月30日
ポーズをとる真理子さん(向かって左)と私

カール氏自宅でのパーティにて 写真提供:鈴木美智子 1995年9月30日)

  料理はおいしいわ楽しいわで、そのためか真理子さんも私も少し酔いが入っていたのか、左のようなポーズをとった写真となりました。今思い出しても本当に楽しかったです。

  いやな顔をせず、私たちを温かくおもてなししてくれたカール氏家族に感謝しています。



ロスツアー編

  CSUNとトライポッドのほかにいろんな場所を見学しましたが、その見学先にも真理子さんの強い願いがこめられていました。字幕センターもその中のひとつですが、別の年ではテレビ局内を見学したこともあります。アメリカでは新聞やテレビなどで内容の深いものを提供するからこそぜひともその様子を感じてほしいという真理子さんの願いでした。
真理子ロスツアーの字幕センターにて1995年9月25日
字幕センターの様子 

テレビに字幕をつけている作業をしているところ
字幕センターのスタッフの方々

責任者がにこやかに私たちの質問に答えてくれたのが印象的でした。
2枚写真提供:ASさん 1995年9月25日
真理子ロスツアーの字幕センターにて1995年9月25日

  字幕センターも印象深かったです。当時日本ではまだ字幕がテレビに出ていなかった時代でアメリカではADA(アメリカ障害者法)の影響ですべてのテレビに字幕がつけられるのが当たり前になっていたからです。

  真理子さんはテレビに当たり前に字幕がつけられているのがどんなものかを私たちに示そうとして字幕センターだけでなくホテルでもテレビの前に私たちを集めさせて字幕が出ている様子を見せていました。生放送であるニュースでも字幕がちゃんと出ていて、キャスターが話しているスピードと変わらない速さで字幕が流れているのに驚きながら見ていたのを覚えています。後に私自身留学した後、テレビ字幕があまりにも早いためぱっと読み取れるよう、一生懸命にがんばったのが懐かしい思い出です。

GLAD 1995年9月25日GLAD 聾・難聴者サービスセンター
GLADの全景

上階が聾・難聴者の老人ホームとなっている。2枚写真提供:ASさん 1995年9月25日
GLADの全景1995年9月25日


  その聾・難聴者サービスセンターはまずはカリフォルニア州のロスから始まり、サンディエゴ市、サンフランシスコ郊外にあるオークランド市、サクラメント市と広がっていったのです。そこには聾者のカウンセラーがいていろいろ相談に応じてくれる他にアメリカは当然移民の方も多く、また貧しい人たちも多く住んでいます。低い教養家族では文盲の聾者も珍しくありません。そういう聾者たちのための英語教室を開いたり、職業指導をも行ったりしています。また十代の若者達へきちんとした性知識を持たせるための教育や女性たちへ乳がんへの知識、その予防などの健康教育などを行っています。

  今思えば真理子さんは聾者の自立がどんなものかを私たちに示そうとしていたと思います。その願いが散りばめられていたツアーだったと思います。だからこそ真理子さんのツアーは成功できたでしょう。普通の観光的ツアー、大学見学でさえも観光的になっていたツアーとは距離を置いていた真理子さんのツアーでした。

  その後真理子さんが筑波技術短大(現在筑波技術大学)で非常講師として英語を教えるようになってから、その聾学生たちを引き連れてのツアーを実行しました。そのためそれまでのツアーは9月から10月にかけてでしたが、大学の春休みに合わせて3月の終わりの週ごろに変わりました。それまでのロスのみのツアーから幅を広げてワシントンDC、アトランタ市のマーチン・ルーサー・キング牧師の記念館、ロスと回ったのです。当時真理子さんは私にこういったのです。「今の若い学生達は差別というものをほとんど知らない。その差別があったということを学生達に実感してほしいと願っているのよ。そのためにマーチン・ルーサー・キング牧師記念館をツアーに取り入れたの」と。その言葉でもわかるように、真理子さんのツアーは普通のツアーとは中身の違うものだったとわかると思います。真理子さんはそれだけ強い願いと信念を持った女性であり、大きな愛を持って私たちを見つめていたと、振り返ってそう思います。

  真理子さんのツアーはそれだけ実りの多いものでした。きっとツアー参加者達の胸の中に今でも真理子さんの心が受け継がれていることでしょう。



ちょっとおまけ

お疲れ真理子さん・・・実は乗り物酔い!?
お疲れ真理子さん・・・
と言いたいけど、実は・・・何と乗り物酔いで、しかもユニバーサルスタジオでのバックトゥフユーチャーでなのです。
まーなんとも気の毒な真理子さん・・・
お疲れ様でした~!! おかげさまで楽しかったです!
写真提供:ASさん

ロスツアー文責:鈴木美智子
写真及び情報提供協力:ASさん、鈴木美智子
写真編集:鈴木美智子

メモ:上記のサービスのほかにカリフォルニア州から始まったサービスにTTYリレーサービスがあります。電話の代わりにTTYという文字電話が聾者たちは使われていましたが、ある時ピザを家にいながら注文したいという聾者たちの願いから文字電話によるリレーサービスが最初はボランティアで始まったのです。そしてADA[アメリカ障害者法)が1990年7月に成立するとそのサービスがボランティアから本格的なプロオペレーターによるサービスに変わり全米に広まったのです。字幕センターも同様です。CSUNのNCOD[炉い・難聴学生サービスセンター)のサービスもADAによってさらに充実したものとなることができたのです。
   真理子さんが留学した当時はADA前でサービスはあるけれども聾・難聴学生に不利な面が多くあったようです。それだけにADA後の充実したサービスがどんなにか聾・難聴者達にとって助けになっているかをも私たちに見せたかったのだと思います。



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